歴史資料館

TEL 055-263-6884 年中無休
AM 11:30〜 PM 2:30 (L.O.)

歴史資料館/History museum

響の里に到着すると、巨大な武田信玄像がお出迎え。
高さ6m、県内最大の大きさを誇る信玄像で記念写真をどうぞ。

武田信玄像

お食事スペースには武田信玄の歴史を探訪する資料館が併設しております。
武田氏ゆかりの鎧や兜、歴史的資料を展示して、より深く甲斐の歴史を知ることができます。

歴史資料館 写真1
歴史資料館 写真2
歴史資料館 写真3
歴史資料館 写真4

り絵「武田二十四将」

武田信玄:甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大した。晩年、上洛の途上に、三河で病を発し信濃で病没した。

山本勘介晴幸:武田の軍師であった勘介は『甲陽軍鑑』によると天文12年(1543)に武田の臣となり、永禄4年(1561)の川中島合戦で戦死するまでの19年間、信玄の知恵袋として活躍した知勇兼備の将として知られた猛将であり、武田武将群で一番知名度がある。ところがこれほど勇名でありながら、勘介ほど正体不明な人もいない。戦国ロマンというベールに包まれたなぞ多き人なのである。

三枝勘解由左衛門尉守友:山県昌景ほどの剛の者をも感服させたという守友の戦功は、まず永禄12年(1569)の小田原攻め、三増峠の合戦での働きがある。長篠の合戦では、守友は信玄の弟・武田信実と鳶ノ巣山に陣どったが、徳川方の率いる4000の軍勢の奇襲攻撃を受け、守友らの防戦も空しく信実、守友らは討死した。守友は38歳だったという。

小幡山城守虎盛:父日浄亡き後、14歳で小幡家の跡目を継ぎ、信虎の代にすでに足軽隊将となり、信玄の代には鬼虎の異名をもって知られた剛将であった。永禄4年(1561)9月の川中島合戦を目前にした6月に病死した。没年は71歳という。虎盛は臨終に際して「よく身の程を知れ」という九文字の遺言を残し、子孫をいましめたと伝えられる。

板垣信方:武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた。武田二十四将、武田四天王の一人。武田晴信が父信虎を追放して家督を継ぐと家臣団の筆頭格となった。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代(上原城城代)となり、諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが、逆襲を受けて討死した。

小山田左兵衛尉信茂:信茂は信玄、勝頼の二代に仕え、『甲陽軍鑑』によると騎馬200騎を擁する侍隊将とある。現在の都留市に居館を持ち、岩殿山城は防備の山城として警固していた。『甲陽軍鑑』には、信玄の側近にあって合戦の相談や、進言をする「弓矢の御談合7人衆」の中に信茂が加わっていたとある。若いながらに信玄に信頼されていたことを物語っている。

高坂弾正忠昌信:信玄、勝頼代における代表的な知将である。信玄の寵童だったとも言われている。武田家の滅亡を知ることなく52歳で病没した。後世、昌信の著と伝えられる『甲陽軍鑑』は、武田家興亡の歴史をはじめ武田流と呼ばれる軍学の理論、兵制、軍団の編成と構成、兵器の解説、さらに訴訟公事などが盛り込まれている書で、徳川時代、武家の軍事教科書として広く愛読された。

馬場美濃守信春:有名な長篠の合戦で勝頼に帰陣を勧めたが受け入れられず、武田軍は壊滅的な打撃を受けた。敗走する武田軍のしんがりという、最も困難な役目を引き受け、安全圏に勝頼が脱出するのを見届けると、馬首をかえして敵陣におどり込み華々しく討死した。

原美濃守虎胤:合戦に臨むこと38度、全身に受けた向こう疵は53ヶ所を数えたという剛の者として知られている。虎胤が世を去ったとき信玄は「虎胤は幾多の合戦で限りなき武功をあらわした真の剛の者なり。世人、虎胤を畏敬して鬼美濃と恐れしわが忠臣なり。当家、虎胤のほか美濃を称する者としてなし。」と、勇猛の将の死を悼んだという。

穴山玄蕃頭信君:信君というより梅雪といった方が一般によく知られている。武田親族集筆頭頭格のたちばである穴山梅雪は多くの人が「武田家滅亡直前、徳川に寝返った離反者」というが、本当に自欲のためだけで武田家を裏切ったのだろうか? しかし現在では武田家救済のため、あるいは武田の家名存続を求めるため、家康を頼っての離反であったとの見方もされている。

土屋右衛門尉昌次:昌次は31歳という短い生涯であったが、武田の若手武将として信玄にその将来を大いに嘱望され、信玄没後は勝頼のよき相談相手となった青年将校であったという。長篠の合戦で昌次は勇敢にも単騎で馬どめの柵の中に乗り込み、柵を引き倒そうとしたところを鉄砲隊の集中攻撃を受けて戦死したことが『四戦紀聞』の中に書かれている。

真田弾正忠幸隆:「六連銭」の旗印で有名な信州の名流真田氏の氏祖である。信玄が一生に一度の負け戦と言われる村上との戦後、幸隆は策略をもって村上軍をわずかな手勢で撃滅させた話は有名である。これ以後「信玄公あるところ必ず幸隆あり」と言われるほど、輝かしい戦歴を残したことが「真田三代記」などに書かれている。天正元年(1573)5月、信玄の後を追うように世を去った。

小幡昌盛:甲斐国武田氏家臣で足軽大将。武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。父は小畠虎盛(小幡虎盛)で次男。叔父に小幡光盛がいる。通称を又兵衛、のち豊後守。仮名は孫十郎だが、『甲陽軍鑑』や『軍鑑』に基づいた『甲斐国志』では孫次郎としている。

甘利備前守虎泰:虎泰は信虎、信玄の二代に仕え、信虎の代からの侍隊将である。板垣信方、飯部兵部らとともに合戦では常に先陣をつとめた剛の者として知られている。信玄自身も負傷し、初の負け戦となった天文17年(1548)2月、信州上田原での村上義清との6時間にもおよぶ激闘で、板垣信方らとともに武運尽きて戦死した。

山県三郎兵衛尉昌景:信玄、勝頼の二代に仕え、合戦、戦略、外交、治安、内政などにわたり主君の手足のように動き回り活躍した武将である。飯部兵部少輔虎昌の弟で、兄に劣らぬ勇将の片鱗を見せた。長篠の合戦で、武田軍の劣勢を挽回しようと敵陣に突入した昌景は全身に数弾受けたが、落馬せず采配をくわえたまま絶命したといわれている。

飯部兵部少輔虎昌:虎昌は「甲山の猛虎」と恐れられた豪勇で、板垣信方とともに信虎、信玄二代にわたって活躍した宿将である。飯部虎昌が率いた飯部隊は「飯部の赤備え」と言われ、騎馬武者から兵卒に至るまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一していた。赤一色の飯部隊の突撃は火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から戦意を失ったという。

内藤修理亮昌豊:信玄の弟信繁が川中島で戦死した以降甲陽の副将と称されるほどに知略に優れた武将とうたわれた。長篠の合戦で味方の不利を悟り「力攻めをすれば味方の損害が大きいことは必定。よって長期戦の構えが有利。」と勝頼に進言したが受け入れられず、もはやこれまでと、甲州武田武士の最後を飾り敵の銃火の中へ飛び込んでいったのである。

武田刑部少輔信廉:逍遙軒(しょうようけん)と言ったほうがよく知られている。信虎の三男で信玄、信繁の同母弟である。川中島合戦後、信繁亡き後は親族衆の筆頭として信玄を補佐した。信廉の容貌は信玄に酷似していたといわれ、数々の合戦で“影武者”をつとめ、信玄没後も敵を欺くために信廉が身代わりをしたという話も伝えられている。

秋山伯耆守信友:元亀3年(1572)信玄上洛戦の先陣を引き受けた信友は、一軍を率いて伊那谷を進撃した。三方ヶ原の戦いでは、信友は山県昌景隊とともに家康を急追し、命からがら浜松城に逃げ戻った家康は「さても秋山信友、武田の猛牛に似たる恐ろしき男」と言ったといわれる。猛虎猛牛と異名をとるほどの剛のものだった信友の豪胆ぶりが覗われる。

武田左馬助信繁:信繁は大栄5年(1525)、信虎の二男として生まれた。兄の信玄に劣らず聡明で、長ずるに従い文武両道に優れた人物だった。永禄4年(1561)8月、上杉謙信と信玄は川中島の八幡原で決戦。武田軍は上杉軍を前後から攻撃する“きつつきの戦法”を策したが、逆に奇襲を受けてしまった。大混乱に陥った本陣を、信繁は死力を尽くして守り抜き、花々しい戦死を遂げた。

切り絵作家「百鬼丸」による「武田二十四将」を展示しています。戦国時代、「武田二十四将」は甲斐の名将・武田信玄ひきいる“常勝無敵・甲州軍団”の中核として、その精鋭の陣頭に立ち、幾多の合戦場面で華々しい活躍をみせ、天下に勇名を轟かせた信玄配下の猛将剛将たち二十四人です。

り絵作家「百鬼丸」

富士吉田市出身の日本を代表する切り絵作家。
多数の表紙・書籍カバー・カレンダーなどを手掛け立体的な切り絵を手法として活躍中。

-百鬼丸氏略歴-

1951年
山梨県富士吉田市生まれ
1973年
東洋大学工学部建築学科卒業
1978年
独学で切り絵を始める
1980年
JTB雑誌「旅」でデビュー
1997年
第6回文藝家クラブ大賞美術部門受賞
2001年
富士吉田市立病院陶壁画制作
2005年
母校山梨県立吉田高等学校食堂陶壁画制作
2006年
富士吉田市火祭りポスター製作 / 甲斐の国風林火山博公式クリエーター / (2007年大河ドラマの主役「山本勘助」他武田二十四将の切り絵制作・展示) /ふじやまビール缶のイラストを製作

梨の武将 武田信玄公

山梨を代表する戦国大名です。初め甲斐(かい)国、のちには信濃(しなの)・駿河(するが)と、上野(こうずけ)・飛騨(ひだ)・美濃(みの)・遠江(とおとうみ)・三河の一部を領有する大大名となります。父は信虎(のぶとら)、母は大井信達(のぶなり)の娘。幼名を太郎、勝千代といい、元服して晴信(はるのぶ)と称しました。官位は大膳大夫(だいぜんだゆう)、信濃守(しなののかみ)に任ぜられ、1559年(永禄2)に出家して信玄と号し、法性院(ほうしょういん)、徳栄軒(とくえいけん)とも称しました。

1541年(天文10)に、暴政を振るって家臣団から見放された父信虎を駿河の今川義元(よしもと)のところへ追放し、家臣の支持を得て当主となりました。家督相続の直後から信濃への侵入を開始し、諏訪(すわ)氏、小笠原(おがさわら)氏、村上氏などの信濃の諸大名を制圧し、領国の拡大を図りました。そのため南下策をとっていた長尾景虎(ながおかげとら)(上杉謙信(けんしん))と対立することになり、1553年に両者は初めて北信濃で衝突しました。敗走した村上・小笠原氏らは越後(えちご)の長尾景虎に助力を求め、謙信は以後連年にわたって信濃へ出兵し信玄と対決しまた。これが著名な川中島(かわなかじま)の戦いで、1564年(永禄7)までのおもな対戦だけでも五度に及びました。とりわけ1561年の対戦は有名で、真偽は不詳であるが、乱戦のなかで信玄と謙信との一騎討ちが行われたという俗説が残されています。謙信との対決でも優位を保った信玄は、その後、隣国の北条氏康(うじやす)、今川義元との婚姻による三者の同盟関係を梃子(てこ)に、西上野(こうずけ)に侵入し、北関東の領有をねらいました。ここでも謙信と対決することになり、信玄は小田原北条氏と連携して謙信の南下を阻止しました。同時にこのころから飛騨・美濃へも侵入し、金刺(かなざし)・遠山氏などの旧族を滅ぼして領国化しました。

1569年10 月には、北条氏の本拠地である小田原城を包囲し、ついで相州(そうしゅう)三増(みませ)峠の戦いでも勝利を収めて、北条氏政と興津(おきつ)に対陣、伊豆に進攻しました。

北条氏との和議の成立後は、信玄の目標ははっきりと上洛(じょうらく)のための西上(さいじょう)作戦に向けられ、1572年に入ると、遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まりました。同年10 月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始しました。12 月には家康の居城である浜松に近づき、三方(みかた)ヶ原で家康・信長の連合軍を打ち破りました。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落としました。しかし、翌1573年4 月、三河野田城(愛知県新城(しんしろ)市豊島(とよしま)本城)を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷(いなだに)の駒場(こまんば)(長野県下伊那郡阿智(あち)村駒場(こまば))で4月12日、53歳をもって病死した。信玄の死は信玄の遺言どおりその子勝頼(かつより)によって3年間隠されました。1576年(天正4)4月に本葬が営まれ、恵林寺(えりんじ)(山梨県塩山(えんざん)市)が墓所と定められました。法名は恵林寺殿機山玄公大居士です。その後、勝頼によって高野山(こうやさん)へも分骨が行われ、その際、信玄の画像や遺品などが奉納されています。信玄の跡目は四男の勝頼が継ぐことになりました。

山梨の武将 武田信玄公